落花流水




屯所内の本堂へ向かう渡り廊に差し掛かると、すーっと心地よい風が頬を撫でた。


晴れた日でも薄暗い回廊に比べ、双方向から風の通るここは随分と明るい。
ゆるやかな風に抗うことなく靡く髪を押さえながら、
千鶴はその明るさに導かれるように廊下の向こう側に目を移した。


そっか、今日は天気がいいんだ・・。


そんなことにも気付かないほど、知らず知らず不毛な想いに心を囚われている。


どんなに探しても出口など存在しないと分かっている。
どんなに期待しても光など射さないと知っている。


そうしてまた、払拭できない暗雲が胸を締め付ける。


先ほどまで歩いていた陽の差し込まない回廊を振り返り、
まるで今の自分の心情を映しているようだな、と千鶴はひとり自嘲した。






答えならはじめから出ているのに何を悩んでいるのだろう。






この想いは決して知られてはいけない、と









序章










ふと、視線を上げた先に見慣れた人影を捉えて
反射的に身体が強張るのが自分でも分かった。


ドクッ・・・・


一際、大きな音を立てて全身に血液が流れ出す。


それはつい今し方まで自分の思考を完全に支配していた者。


偶然とはいえ、間が悪すぎる。


「よう、千鶴じゃねぇか、おはよ。」


屈託のない笑顔を向けられて、その優しい表情にドキっとする。
心拍数が急速に上がっていくのが分かる。


顔を見ることができたらそれだけで嬉しかった日々は
今にして思えば一番幸せな時だったのかもしれない。



顔が熱い。



「オ、オハヨウゴザイマス、原田サンッ」


そう発した声が、思った以上に上擦っていたことに動揺する。
いくら早朝とはいえ、これはさすがに不自然だったかもしれない。


「あ、あのっ、今日は天気がいいですよねっ」


動揺を隠そうと重ねた会話は、さらなる動揺を浮き彫りにしたに違いない。
原田は無言でじっと千鶴を見つめ返した。


「・・・・」


まっすぐにこちらを見つめるその視線に、顔が火照っていくのが分かる。
過去の自分はこんな時、一体どうしていたのだろう。
まるで思い出せない。


言葉か浮かばない。


声が出ない。


「・・・・」


そして二人の間に沈黙が流れる。


「千鶴、お前さ・・・、」


その沈黙を先に破ったのは原田だった。


実際は沈黙というには短すぎるほどの時間だったかもしれない。
しかし千鶴にとってそれは永遠にも似た長さだった。


「お前、もしかして」


そう言って眉間に皺を寄せた原田に、千鶴はひやりとした。


もしかして何か気付かれた・・?


電光石火のように沸き起こった焦燥感と不安から
硬く握った手の平にじんわりと汗が広がる。


人の感情に敏感で、勘の鋭いこの人が
万が一でも自分の気持ちに気付かないことなどあるだろうか。


目の前でこちらの様子をじっと見つめる相手の
その耳にまで届きそうなほど大きく鳴り響く鼓動をもはや止められない。


この想いだけは絶対に知られてはいけないと心に決めたはずなのに。
相手の負担にしかならない想いだと分かっていたはずなのに。


どうしてこんなことに・・


ドク、ドクと脈打つ心臓が警告音のように身体中に響く。


こちらを見つめる瞳がさらに険しくなって
千鶴はそれに耐え切れず、逃れるように視線を落とした。





すると突然、額にひんやりとした感触を得て、千鶴はビクリと肩を震わせた。
落としていた視線を目の前の人物へともう一度運び、そして気付く。


額に添えられていたのは原田の手のひらだった。


「―――― ッ!?」


事態を把握して、さらに混乱する胸のうちを隠そうと
千鶴はその手から逃れるように咄嗟に大きく後ろへ退いた。


「あ、あの・・っ」


千鶴の困惑した顔に原田はきまりが悪そうに小さく苦笑すると
行き場をなくした右手をゆっくりと自分の元へ戻した。


過剰な反応だと頭では分かっている。
しかし触れられていた場所が焼けるように熱くなり、その熱が判断力を鈍らせた。







「・・・あるのか?」


「え?」


頭上から穏やかな声が聞こえて、千鶴はようやく視線を原田へと向けた。
するとそこには思いがけずやさしく微笑む原田の姿があった。


「だから、熱、あるのか?」


・・・熱?


「ありませんけど・・」


「そっか、ならいいんだけどよ、
お前の顔、すげぇ朱いから熱でもあんのかって心配になっちまって、その、驚かせて悪かったな。」


眉間に小さな皺を寄せながら複雑な表情を見せる原田に
すべてを理解した千鶴は居たたまれないほどの羞恥心に駆られた。


「い、いえ、大丈夫です、こちらこそご心配をお掛けしてすみませんでしたっ」


できることなら今すぐにでもこの場から逃げ出したい。


「いやそれは全然構わねぇんだけどよ、最近体調崩してる隊士も多いからな、お前も気ぃ付けろよ」


そのあとは意味ありげに含み笑いをする原田に
千鶴はカァァァっと頬が熱くなるのを止められなかった。


あぁ、いっそこの世から消えてしまいたい・・


「き、気をつけます!あの、それじゃ私、土方さんに呼ばれてますのでっ」


そう言って素早くぺこりとお辞儀をすると
原田の脇をすり抜けるようにその場を後にした。


逃げるように駆け出し、振り返らない。
どんな表情の原田がそこにいるのか、それを確認できるほどの勇気を
千鶴は持ち合わせていなかった。

















本堂の廊下を中程まで来ると、千鶴はそこで立ち止まり息を整えた。
陽の差し込まない回廊はやはりここも薄暗い。


ほんとバカだな私・・


この想いに気付かれないまでも、怪しまれたかもしれない。
先ほどのことを思い出して自然と流れる吐息。


それでも、ひどい自己嫌悪と後悔とは裏腹に
原田に触れられた場所は熱を持ったまま一向に引かない。


千鶴はそっと額に触れた。


あの時の感触が蘇る。


そこだけが熱い。


あの優しい声も、表情も、気遣いも、自分だけに向けられるものではない。
そう分かっているのに、押し潰されるように胸が痛む。


こんな想い、気付かなければよかった。


心底そう思うのに、止められない。
矛盾した想いに千鶴は諦めたように小さく溜息を付いた。


あぁ、ほんとに熱、出るかも・・














― その頃 ―




走り去る千鶴の後姿を目で追いながら、原田はひとりクスクスと笑っていた。


「・・・あんなに意識されちまうと脈あるって思っちまうけど・・ いいのか?」


千鶴の背中にそう呟いて目を細めると、くるりと身体を返し歩みを進めた。












- 序章/end -